ギャラリ-Chappyに戻る
 新潟地震の話昭和39年6月16日)
音楽室に戻る

        目次
 P1 新潟地震の話
 P2 帰宅の途
 P3 様々な被害
 P4 交通機関・避難命令
 P5 その後の生活
 P6 その後の影響・新潟水俣病

   開会式・右は新潟市体育館
  昭和39年(1964年)は日本の歴史の中でも大きな意味がある年だ。池田勇人の「所得倍増政策」で、日本中が
右肩上がりに向かい始めていた。その象徴が東京オリンピック開催とそれに合わせた東海道新幹線と高速道路開通
だ。「所得倍増」を隠れ蓑に日本中の工場が煤煙をまき散らし、川には廃液を垂れ流し、水は真っ黒にヘドロ化してい
った。
オリンピックは昭和39年10月10日に開催されたが、この年、第19回新潟国体が開催予定になっていた。例
年は秋に開催される国体だが、オリンピックの為に6月に実施された。東京オリンピックに合わせて、ゾロメの6月6日
が開会式だった。
 私は当時、新潟明訓高校の1年生で、国体強化選手に混じって馬術部に所属していた。当時関屋
にあった競馬場に通い、馬の世話をしていたのだ。
国体開会式のマスゲームには市内の高校1年生がかりだされ、私
もその中にいた。障害と馬場競技は競馬場で行われ、国体期間中は、そのサポートで参加していた。そして11日に終
わり、白山の陸上競技場も、競馬場も静けさを取り戻したばかりだった。                           .
        国体開催中 地震後の競技場

地震当日 6月16日、午後の授業は体育の予定だった。13:05に始まる授業に間に合うように、13:02に体育
館に足を踏み入れた時、揺れが来た。
体操部のA君が吊り輪をしていたので「吊り輪で揺れる体育館とは何てボロイんだ」
と思った瞬間、ドカン!と大揺れが来た。それは                                          .
「波」だった。体育館の床が海のように波打った。1m以上もある「床板の大波」が押し寄せる。天井の張りが、バ
リバリと音を立てて降ってきた。壁につかまり、立っているのがやっとだった。
逃げ出したのはおそらく学校で1番だった。
体育館の脇に自転車置き場があったが、自転車はすべて倒れていた。揺れで真っ直ぐに歩けない。転んで自転車の上
に倒れた。後ろからついてきた女子も一緒に倒れた。それを起こしてあげる心のゆとりはあったが足元に地割れが走り、
それが広がっては閉じた。                                                      .
地割れに足を踏み入れないように必死になって進んだ。
学校の前の広い道路が、比較的安全に思えたので真ん中
で周囲の様子を見た。アスファルトの道路は、起震車のようにまだ上下左右に揺れており、並んでいる電柱はみんな同
調して大きく揺れていた。校庭の真ん中から水が噴き出しそれが校舎の2階の高さくらいまで吹き上げた。あっという間
に水浸しになり、4階建ての校舎2棟が水に浮かぶマッチ箱のように大きくフワフワと揺れて見えた。
しだいに生徒が大
勢になり、避難場所の雰囲気になってきた。級友と道路脇のカーラジオに耳を傾けた。「昭和石油のタンクが炎上した」
「大山町のタンクも炎上」「山の下方面で火災発生壊滅的状況」「信濃川にかかる3つの橋が落ちて、通行不能」とBSN
のアナウンサーは半ばパニック状態で情報を流していた。山の下から来ているクラスの女子が泣き出した。
慰め励まし
はするものの、確かに対岸の山の下方面の空に黒い煙が立ちのぼるのが見えていたのだ。「3つの橋が落ちたなら、
あの鉄橋を渡れば帰れるな」と私は妙に落ち着いて考えていた。すぐそこに白新線の鉄橋が見えていたからだ。おおか
た生徒は避難してきたのに、4階のベランダで手を振ってふざけている3年生の集団がいた。揺れを楽しんでいるような
様子で、全校生徒に注目されたいのか降りてくる気配がない。体育教師が「早く降りてこい!」と絶叫した。そのあと見
せしめのように、ピンタの嵐が往復した。「どっちもどっち、馬っ鹿らねっかて!」と感じていた。               .
デマ情報
が、災害には付物だ。後でわかるのだが、「山の下が壊滅状況」「橋が3つ落ちた」「通行不能」はデマ
情報だった。情報は鵜呑みにせず、冷静な判断が必要と思った。そのうち先生から                     .
  
2週間前に完成した昭和大橋が落ちた 津波が信濃川を遡る    避難した白新線の線路

津波が来る可能性があるので、「線路(高台になっている)に避難する。向かいの癌センターの患者さんを運ぶのを手
伝うように」という指示が出た。明訓高校は信濃川の土手沿いに建っていた。(ボート部は強くて同級生は後にオリンピッ
クにも出ている。)津波にやられたらひとたまりも無いのだが、当時それほどの危機感もなく、のろのろと癌センターに向
かった。
癌センターには、2歳の甥(長姉の息子)が入院しており、母が付き添っていた。意識不明のまま生死をさまよっ
ている状態だった。(この数年後、意識は戻ったが、重い障害が残り、重症心身障碍児となった。私の後の仕事に大きな
影響を与えた)
たぶん動かせないんだろうと判断し、重そうな患者さんの移動を手伝った。                   .
線路は波のようにくねくねと曲がっていた。                                         .

                       戻る       次へ