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   帰宅の途(写真は新潟日報 写真集より)
「千の風」の新井 満氏は、明訓高校の2歳先輩だ。氏は新潟地震を「恐怖」として記憶し今でも思い出すと震え
ると何かに書いていた。私は確かに「揺れの最中の恐怖」はあったが、それ以上に楽しい(不謹慎だが)記憶の
方がはるかに多い。月800円の県営住宅に住み、何の責任も持ち合わせない高校1年生の思いだった。    .

帰り道の最初の楽しい出来事                                         .
 橋が3つ落ちたというデマ情報で、人々が鉄橋に集まって、渡り始めていた。私は大山町のS君と連れだって、
その鉄橋の真下へ行ったのだ。これは確信犯!上を見上げて堪能した。
十代の頃の男の子の脳みそはピンク色
に染まっているのだ。そのうち落ちたのは昭和大橋だけで、八千代橋と万代橋は渡れると情報が入った。土手沿
いに万代橋まで歩いた。道路に大きな亀裂がたくさんあり、小型車が亀裂に挟まっている。震災後の道路を、車
で移動するのは不可能だ。足だけが頼りだ。                                       .
 
       鉄橋                 山の下橋
2つ目の楽しい出来事
                                                       .
 万代橋を渡って左に曲がると、「東港線」といって港の脇を通るのだが、津波のせいで膝上20cmくらいまで浸水
していた。魚市場の木箱が大量に流されて浮いている。あちこちで電柱が倒れていた。その水の中をジャブジャブと
歩いていくのだ。非常時とあって、女子高生もOLも、みんなスカートを前にたくし上げて「見てみて」と言わんばかり
のポーズですれ違うのだ。「
色とりどり」でS君と目を合わせてはすましていたものだ。とはいえ、「家は潰れていない
だろうか?燃えていないだろうか?浸水していないだろうか?」という心配は有るにはあったが、「自分が心配したっ
てどうにもならないさ」という思いが強かった。藤見町に近づいてきた。傾いた家をたくさん見てきたが、市営住宅・県
営住宅とも潰れてはいないのが見えた。しかし手前のバス道路が、万代橋の道路の亀裂よりすさまじい状況になっ
ていた。1m以上の段差があちこちに見られた                                        .
  流れた木箱
波打つ道路・傾く家                                                            .
 我が家のある町内は県営住宅48軒で、2軒つながったいわゆる”文化住宅”8棟づつ3列。我が家は真ん中の列の
奥から2棟目の右側だ。町内の路地に入ると、驚きの光景が見えた。町内の大地全体が波の形で止まっていた。地震
の波が通り過ぎて、最後の形が保存されたように見えた。手前に傾いている家・向こうに傾いている家・真っ直ぐ建って
いる家と様々だった。
それは最後に止まった波のどの部分に建っているかで、傾きが違っているのだ。我が家に近づい
てきた、手前のKさん宅は手前に傾いていた。そして我が家は波のちょうど頂点にあり真っ直ぐ建っていた。そして奥の
Oさん宅は向こうに傾いていたのだ                                                .
  
  藤見町のバス道路         町内の模型(青いのが我が家)       万代橋付近

真っ直ぐに建っているように見えても、どの家も同じように揺れていたわけで、穏やかに横に揺れていたわけではない。
起震車が揺らすような揺れとは明らかに異なる。数メートルの上下動を伴う波の揺れなのだ。これは明訓の体育館で、
床板の波を目の当たりにし、体感したものだった。我が家のコンクリートの土台は至る所で亀裂が入り、土台と家はずれ
てのっていた。そして内部は惨憺たるありさまだった。                                      .

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