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様々な被害

●川岸町県営アパート                                                     .
  明訓高校、癌センターは川岸町にあったが、そこから歩いてすぐのところに県営のアパートがあった。鉄筋コンクリート
の4階建てなのだがすべて傾いた。特に真ん中の棟は完全に倒れた.ここの住人の一人が屋上に逃げたという事で話題
になった。「鉄筋コンクリートの建物が倒れる訳もなく、外に逃げるより屋上が安全だと考えた」という。屋上の出口に立っ
たとき、建物が倒れた。幸運にもその出口の壁の上に立っていて無事だった。この主婦が実はクラスのS君のお母さんだ
った。後に大学の教養部時代に、お世話になった人文学部S教授の奥さんだったのである。                  .
                                                      ↓S君
  
・                    白い人影は管理人の創作  反対側に倒れていたら危なかった

後に、S君の案内で倒れたアパートを見にいった。新聞にも報道にも何も触れられていない物を見てしまった。アパートが
倒れた後の地面には玉砂利が敷いてあるだけだった。基礎杭が1本も打たれて無かったのである。電信柱のような太い
杭を、地響きをたてながら何本も打つのを建設現場で見ていたが、あれが1本も無いのだ。完全な手抜き工事!液状化
現象の例として扱われるこの倒壊例は、実は手抜き工事が原因だったのである。 「中も面白いぞ!」と言われて、よじ
登り3階のS君の家の窓から、縄ばしごで中に降りた。「天井に窓が!天井と床が壁!」不思議な光景だった。S君には
悪いが、3つ目の楽しい経験だった。                                                .
●昭和石油の火災                                                      .
  臨港町の昭和石油の石油タンクは300あまり、何日も燃え続けた。そして火のついた油が流れてたくさんの民家・工     .
場が焼けたのである。20歳年上の兄は、その敷地内にあるドラム缶洗浄会社で働いていたが、すべて燃えて会社は倒産
した。当時の私はそんなこととは一切無関係だった。物見山の砂山に仲間と見物に行った。学校は長期間休校になったし、
暇だったのである。1Kmほど先でタンクが燃えていた。「次はどれらろ?」「あれらて」次の瞬間、巨大な火柱が上がり、タ
ンクの大きな蓋が上空に舞い上がる。1Km離れたここまで一瞬熱くなるのだ。そして「ドーン!」「キーン!」と音が遅れて
やってきた。「たーまやー」と思わず叫ぶのだった。次々に別のタンクに引火して爆発炎上するのを、不謹慎にも楽しむ高  .
校生だったのである。                                                           .
  
      昭石火災            浸水に船も出動         至る所 水浸し
●水害                                                                  .
  近くに通船川が流れていた。信濃川と阿賀川を結ぶ川で、小学生のころはベルトに手ぬぐいを縛ってふんどしにして泳    .
いだ。魚釣りもよくやった。モズが魚を串刺しにしているのも見られた。シジミを採ったり、カニを捕ったりたくさんの経験をさ
せてもらった豊かな川だった。それが昭和39年当時は、真っ黒く汚れてヘドロ化し死の川に変貌していた。その通船川が
決壊し、藤見町一帯が浸水した。うちは地震の波の高いところで止まっていたので、幸いにも床下浸水ですんだ。しかしト
イレは汲み取り式だったので、汚物がみんな流れ出ていた。                                    .
●ライフライン                                                         .
  電柱はあちこちで倒れ、電線は切れて垂れ下がっていた。新潟は天然ガスの産地だが、ガス管はずたずたになってい
た。 水道管もずたずた。電気・ガス・水道は長期間止まっていた。この頃うちには電話は無かった。たぶん電話も長期間
止まっていたんだと思う。この中で最も困ったのが、水だ。この頃お風呂は薪で炊いていたので、物置小屋に薪が山積み
になっていた。薪で炊く釜もまだ家にあった。七輪も炭も普通にあった時代だった。しかし肝心の水が無い。自衛隊の給水
車が来ると大きなポリバケツを両手に持って並んだ。週に1度はお風呂に溜める為、何回も並んだ。我が家は、男は私一
人だった(父は3歳の時、胃ガンで亡くなった)ので力仕事は私の役割になっていた。この頃は腕が筋肉で盛り盛りになった。
  
         倒れた電柱                   給水車
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