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その後の影響
●相次ぐ倒産 .
私は6人兄弟の末っ子で、一番上の兄とは20歳離れている。姉が4人いて、長女は結婚していた。下2人の姉は
住み込みで、家を離れていた。2番目の姉と母と3人暮らしだったのである。姉たちの支えで暮らしていたのだった。
その姉の会社が「地震の日に火事になった」。「火災が起きている時に地震が来た」と社員全員で口を揃えて主張
.
したらしいが、認められなかった。結局、地震で火災が起きたということで火災保険は降りずに、会社はその後傾いた。
その後姉も仕事が替わり、後に家を出て独立した。私は母と二人暮らしになったが、3畳の部屋から6畳の部屋に格上
げになった。 兄の会社は、昭和石油の敷地内ですべて燃えて無くなった。その後、民医連の沼垂診療所に勤めるよ
うになった。 .
●新潟水俣病 .
1965年、兄が勤める診療所に、ある患者が訪れた。阿賀野川流域に住む人で、手足のしびれを訴えたという。
ドクターは「熊本の水俣病と症状が似ている」と考え、新潟大学医学部のT先生に検体の分析を依頼した。その結果、
第2水俣病として新潟水俣病が発覚し、沼垂診療所が牽引力になって1967年に裁判闘争が始まることになった。そ
れは私が地元の大学に入学したのと同じ年だった。泰平橋周辺の一日市(ひといち)で水俣病の症状を訴える人が多
かった。川魚を捕る漁師さんが多く、ウグイを食していたという。このウグイも大学で分析し、大量の有機水銀が検出さ
れた。犯人探しの結果、上流の鹿瀬で昭和電工が見つかった。熊本のチッソと同じく、肥料を作っている会社で、やは
り水銀を垂れ流していたのである。裁判は意外な展開になった。昭和電工側は、横浜国大のK教授を証人に立てて
「くさび説」というのを打ち立てた。「阿賀野川をくさびのように水が泰平橋付近まで逆流した。新潟地震当時、港の倉庫
に大量の農薬があり、それが津波で流出し、阿賀野川を遡った。そもそも廃液は無機水銀だ」と主張したのである。
上流の鹿瀬から下流の一日市までの間に患者がいないのが不思議ではあった。が新潟地震がこの問題に登場した
のが意外だったのである。患者側の証人として新潟大学のT先生が立ち、「食物連鎖説」を訴えた。無機水銀が藻に
付着し、それを小魚が食べる。さらにそれを中魚が食べ、有機水銀として蓄積され、さらにそれを食べたウグイに高濃
度の有機水銀として蓄積された。それを人が食べて発症した。としたのである。水銀が河口から来たのか?、昭和電
工のある上流から来たのか?の争いになった。これは昭和電工側としては愚かな争点だった。水が逆流できないくら
いに遡って、患者を捜せば決定的になるからだ。学生自治会ではこの裁判闘争を支援していた。一日市から上流に
向かって、患者捜しに入ったのである。不思議なことに患者が現れなかった。しかし猫が死んだという話がありこの
死骸を大学で分析した。やはり猫は魚を食べていた。猫は水俣病だったのである。1971年、新潟地裁前でテントが
張られ多くの支援者が集結した。その中で藤見中学時代の恩師S先生に出会った。組合で頑張っている先生とは聞
いていたが、大好きな先生だった。「よお!」という短い言葉に「先生も頑張っているんだ」と感じて妙に嬉しかった。
裁判は当然、勝訴だった。不思議なことに裁判後に、上流から中流に渡って患者が名乗り出てきてまんべんなく分布
する事になった。また、魚釣りが好きな人が魚を食べて水俣病を発症する人も出てきた。阿賀野川流域からはずれた
ところにも患者は分布していたのである。さらに驚くべきは新潟地震から半世紀たった現在でも患者認定訴訟の裁判が
続いているということである。私は「K教授の横浜国大」がある横浜に就職することになった。以後ずうっと横浜国大が
好きになれないまま、退職を迎えたのだった。 .
阿賀野川 泰平橋
最後まで読んでいただき、ありがとうございました
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